#2 あまねく雫に焦がれども

「駄目だ」
 有無を言わさぬ威圧を込めた喪助の一言に、視界の端に座り込んでいるいとが身を縮こまらせた。向けられた話を聞いている間、終始目を向けずにいた喪助の様子を伺っていたいとだったが、喪助の反応は想定内だったようで普段と異なり涙を堪えている。
 互いが黙り込む静寂の中、喪助の刀を研ぎ続ける音が双方の鼓膜を震わせ続けていた。それでも、いとはたった一言で引き下がる程度の決意で喪助の作業場に訪れはしなかったのだろう。弱々しくも拳を固め直して、強い眼差しを見せた。
「ですが……畑の野菜も長らく不作で、みな飢えるばかりではありませんか」
 齢十に満たない少女とは思えぬ、しっかりとした口ぶりだった。より幼い子どもたちの世話をする中で大人びた成長を見せているいとだが、まだまだ小さな体躯で弱々しいことは確かだ。それは子どもの域を出るには程遠い。だからこそ、そんな少女が〝女〟であることを強く意識した相談を持ち掛けてきたこと自体、喪助にとっては頭の痛い出来事だった。
「んなこたぁ言われなくてもわかってんだよ。まだ小せえガキも多いんだ。どうにかしなきゃならねえとは」
「だからっ、だから、わたしもできることがあると思って……」
 食い気味に、言葉を遮った割には言葉尻はすぼまっていく。黙ったままの喪助にいとは不安そうに体を縮こまらせ、悲しげに、情けなさそうに俯く。自らを守るように胸の前で握る両の手はひどく頼りない。
 視界の端で落ち込むいとを捉えた喪助はいとには気付かれない程度の小さなため息を吐き出す。強引に意識を逸らそうと研いでいた刀を置き、ようやく真正面からいとを捉えた。
 いとがどこでそんなことを覚えてきたのか。といった問いかけは愚問に過ぎない。いとに限らず、共に同じ屋根の下で過ごす子どもたち全員、喪助が四六時中傍についていられるわけではないのだから知らぬうちに知識をつけていてもなんら不思議はないのだ。右を見ても左を見ても荒み歪んだ人々が蠢く世界で、己自身を売り物として生を繋ぎ止めている存在はどこにだっている。そして、いととそう変わらぬ年齢の者も、当然存在すると知っている。
「あのな、お前がオレにその話をすんのは阿弥陀丸に言えないからだろ」
「そ、んなこと……」
「なあ、いと。お前の言う〝働き〟に出たとして、そのあとお前はみんなとこれまで通りでいられるのか?」
 その言葉は、正解ではないかもしれない。それでもこれが喪助の精一杯だった。言葉少なに他人を納得させられるような自信などないが、いとの心にいちばんに浮かぶ人物が誰か――。それだけは喪助にも理解っているつもりだ。
 後ろめたさすら孕んでいたいとの瞳は喪助の思惑通り、強い動揺の色を見せた。ぎゅっと横に引き結ばされた唇は反論の言葉すら出てこない。いとの瞳にじわりと涙が滲み、唇が震える姿に少なからず心が痛むが、喪助は毅然といとを見据えていた。
「――っ喪助さま、意地悪です!」
 拗ねるような、年相応の甘えといった響きが含まれているように感じた。わあっ、と表情にも体にもめいっぱいの気の緩みを見せたいとに喪助は小さく安堵し、体を強張らせていた緊張感が解ける心地だった。
 薄汚れた着物の裾を強く握って涙を耐えるいとの隣へと移動した喪助は、その無骨な手を小さな背に添える。
「オレもみんなも、誰も喜ばねえ。お前は、そういうことはしなくて良い。しない方が良いんだ」
 アイツのためにもな。
 その一言は飲み込んだ。その意図はきっと彼女自身に伝わりはしないだろうし、余計なお世話だろうから。
 
* 
 
 すり減った草履で踏みしめる地面は固く、素足のまま歩くのとさほど大差ない。足裏に走る痛みすら厭わずまっすぐに向かった先は阿弥陀丸が修行の場として定めている場所であり、いとが通い慣れた場所。
 春雨と名付けられた刀は成長過程である阿弥陀丸の体に未だ不釣り合いなほどの存在感があった。それでも軽々と、難なく振り下ろす動作を繰り返す姿は誰が見ても感心するだろう。日頃からその姿を目にしているいとにとっては当然の姿で、まるで自分のことのように誇らしく、ただその様子を眺めているだけで幸せだった。幸福で満たされている時間はほんの一瞬に感じられる。だから、いとは今日もまた時間を忘れて阿弥陀丸の修行の様子をぼうっと眺め続けていた。
 そんないとがふと我に返ったのは、阿弥陀丸が額に浮かぶ汗を拭うために刀から手を離したからだ。
「――阿弥陀丸様」
 木陰から姿を現すと同時に阿弥陀丸の視線が向けられた。いとが声を発するよりも先に反応を示したようにも見えた動きはまるで、いとが傍で彼を見つめ過ごしていたことなど最初から気付いていたのでは、とすら感じ取れるほどだ。距離を縮めようといとが一歩踏み出せば、阿弥陀丸は流れる動作で鞘へと手を伸ばした。
「いと、来てたのか」
 刀を振るう真剣な表情から一変、朗らかな笑顔を見せた阿弥陀丸に胸が小気味よくどきりと跳ねた。鋭く尖る眼光が和らぎ、彼本来のあたたかみを感じるこの一瞬はいとを優しく包み込む。
「そろそろ休みませんか」
 腕を伸ばし、懐から取り出した手ぬぐいを阿弥陀丸の頬にそっと押し当てて汗を拭う。触れる手つきは優しく控えめで、そのくすぐったさに阿弥陀丸の目を細めた。添えられた手ぬぐいを受け取ろうとしたのか、阿弥陀丸の手が重なる。いとの手をすっぽりと覆い隠してしまうほどに大きく、触れた手のひらは硬く、その感触が浮き足立ついとを地に戻した。

「ありがとな」
 阿弥陀丸を見つめ続けた瞳と触れた手に残る熱が燻ぶり、いとの頬を赤く染め上げるが、その心地良さに浸るには心の内を侵す澱みが大きく、なかったことにはできなかった。
「阿弥陀丸様。私も、阿弥陀丸様たちのように仕事を……その、仕事、したいと、思っていて」
 故に、気付いた時には考えるよりも先に飛び出す言葉があった。口にしてようやく、しまった、と体が硬直した。
「仕事お?」
 口を突いて出てしまったのは、阿弥陀丸に対して隠し事をしている罪悪感が芽生えたからだ。なにやら悲しくて、悔しくて、やはり自分はいけないことを考えていたのか? と己を正したい気持ちが溢れたのだ。それでも阿弥陀丸に向けた言葉は濁っているようで、心苦しさが垣間見えている。喪助は〝阿弥陀丸に言えないから〟と言った。強く否定することができなかったことが図星であることを物語っており、なおのこと、いとの心に留まり続けていたのだ。
 すでに喪助との間に答えは出ているのだから、本来なら言わずとも良いというのに。いとは己の戸惑いを誤魔化す器用さを持ち合わせてはいなかった。
「んん……ん~~、お前の細腕じゃあなんもできねえだろうなあ」
 いとが持て余す不安など露知らず、阿弥陀丸の反応はどこまでも呑気なものだった。顎を包むように手を添え、眉根を寄せて考え込む姿は真面目さと共におどけたのどかさすら漂っている。
「大体、ろくな仕事なんてありゃしねえんだから、オレと喪助がどうにかしてやる」
 濁した言葉の裏を探ることもない。疑うこともない。しかし、己を糧とする生き方を、阿弥陀丸が知り得ていないということではないだろう。阿弥陀丸にとっての”いと”は、その選択肢を思い浮かべるに至らないほど、子供らしい清らかさと幼さでいっぱいの存在なのかもしれない。
「オレはいつか絶対に侍になってやるから。殿さまに仕えることができりゃあ、みんなにたらふくメシを食わしてやれるさ。だからお前はその間ガキたちの面倒見て、メシ作っててくれ」
 阿弥陀丸は知らない。いとの揺れ動く危うさを、稚拙で脆く不明瞭な未来への渇望を。知らぬ上で、察することもないままに不安を払拭されることは、いとにとってとても不思議でたまらない出来事だ。
「……それじゃあ、これまでとなにもかわりません」
「んん? それもそうか。じゃあ、お前はいつも仕事してんだな」
 ははは、と明朗な笑い声を上げた阿弥陀丸を見ていると、胸がじんと熱く痺れる。それを痛みとすら認識して胸元の袷を強く握り込んだ。この気持ちがどういった意味を持つのか、いとはまだわからずにいる。
 阿弥陀丸のことが大切だと思う。喪助のことも、共に過ごす子どもたちも同じだ。そんな中で唯一、阿弥陀丸に向ける想いだけが少し違った。違うと感じることはあれど、どう違うのか、何を意味するのか。いとがその気持ちに名前をつけて自覚を得るには、知識も経験も足りない。
 ――お前の言う〝働き〟に出たとして、そのあとお前はみんなとこれまで通りでいられるのか?
 喪助の言葉が幾度と響く。喪助の作業場を離れ、阿弥陀丸と目が合うその瞬間まで、言われたことの意味を考えていた。考えて、どんな変化が訪れるのかを考えたくなかった。
 言葉の代わりに溢れ出たのはとめどない涙で、ぽろぽろと零れ落ちてゆくそれに気付いた阿弥陀丸はぎょっと目を丸くした。
「な、んで泣くんだよ!」
「……あみだまるさま……わたし、阿弥陀丸様と一緒にいたい……」
「んなっ」
 突然のいとの主張は阿弥陀丸にとって思いもよらず、その反応は驚きと困惑と照れが入り混じっていた。
 いとにとっても他の子どもたちにとっても、阿弥陀丸はいつだって自分を、みんなを助けてくれる優しくて強い人だ。けれど自分はいつも阿弥陀丸を困らせてばかりいるように思う。感情を追い越して溢れる涙が悪いとわかってはいるが、どうにも抑えることができない。いとが阿弥陀丸の前で涙を見せるのは珍しいことではないが、その涙の意味は阿弥陀丸に伝わりはしないだろうし、この時ばかりは、伝わらずにいてほしいと願う。
 不思議そうに困惑を浮かべる阿弥陀丸に申し訳なさを抱き、どう言葉を続けようかという考えを遮ったのは阿弥陀丸の声だった。
「あのなあ、そんなの当たり前だろ!!」
 まるで、心に引っかかっていた棘ごと優しく包み込まれたかのようだった。見上げた先の阿弥陀丸の瞳はまっすぐこちらを見つめていて、阿弥陀丸の言葉に迷いがないことを知る。
「はい……」
 小さく漏れる声は呆けたものだったが、阿弥陀丸はいとの涙がぴたりと止まったことに満足した様子で刀を掴み直す。
 刀を振るための距離を取るべく背を向けた阿弥陀丸を目で追い、どれほどじっと見つめようとも、阿弥陀丸がその視線に応えて振り返ることはない。
 阿弥陀丸に懐き、その後ろをついて回った頃のように、彼の体に抱きつくことがなくなったのはいつからか。彼の膝に乗って背を預けることも、寝付けない夜に身を寄せて温度を分け合うこともなくなった。いと自身が、他の幼い子どもたちのそうした甘えを引き出す側に回ったことも、阿弥陀丸が「もう駄目だ」と強く主張したことも理由の一つだろうが、なにより、いと自身が気恥ずかしさを覚えたからだ。
 きっと、あの頃の自分であれば、今にも彼の背に飛び付いていた気がしてならない。何故そう思うのか。ただ疑問が募るばかりだけれど。
 今はただ、彼の中に存在する当たり前の光景が描かれた言葉を噛み締め、じんわりと広がる熱に浸り続けよう。

#2 あまねく雫に焦がれども