宵の帳が落ちる頃

「お前は……俺を憎んでもおかしくないだろうに」
「怒ってないと、お思いで?」
 千夜がどのような表情をしているのか、巌勝から伺うことはできなかった。彼女自身が顔を背けているのかどうかすら巌勝には判断がつかず、かといって無理にこちらを振り向かせることも出来はしなかった。
 その権利が自分にあるのかすら、今の自分にはわからずにいる。
 己の行いによって、選択によって、妻と子の共に過ごす時は失われたのだ。それだけは変わらない事実なのだと、突きつけられる。
「運命……というのは大仰でしょうか。しかし、なるべくしてなったこと。私は悔いてはおりません」
 声が、震えていた。
 しかしその声は力強く、例え虚勢が孕んでいようとも偽りではないことを示している。
「巌勝様。私は母であると同時に、貴方様の妻なのですから」
 横に並ぶ千夜の指先が伸ばされ、巌勝の手の甲に触れる。瞳はこちらに向けられていないままだが、その横顔は微かに笑んでいるように見えた。
「巌勝様が思うままに生きてくださったことも、千夜は嬉しく思うのです」
「…………」
 名残惜しげな仕草で掌へと回った指先から熱が伝わる。僅かな隙間を埋めるように絡まる指からより一層の熱が広がり、まるで彼女の心を伝えようとするかのように思えた。
「だからどうか、謝らないで。目を背けないで。もう……一人にしないで。そうでなければ……私はまた、泣いてしまいます」
 この手を離すべきか否か。答えなど出る筈もない問いを抱えながら、巌勝もまた繋いだ手に力を込める。
 ――過ぎた妻を迎えたものだ。
 その言葉は果たして口に出来たのか。伝わることなく呑み込まれたのか。千夜の笑みが崩れることはなく、熱はいつまでも燻り続ける。

宵の帳が落ちる頃