新たな風習とは、気付かぬうちに世間に知れ渡っているものである。
それは、数カ月間に及ぶ他国の遠征を終え、スネージナヤへと帰郷した時のことだった。部隊の隊員たちには、交代で数日の休暇が設けられた。リーシャもその例に漏れず、休息を取ることとなったのだ。
ならば、とリーシャは遠征で離れていた期間の情報収集をするため、城下のマーケットへと足を運んでいた。
店頭の品揃えが色鮮やかであることは、商売として当然のことだ。しかし、なにやら若い男女が浮き立っているような気配が漂っている。そして、耳に届く喧騒の中に、馴染みのない響きが入り交じっていることに気付く。
「バレンタイン……?」
聞き慣れない単語に、眉を顰めた。
◇
「つまりバレンタインとは、女性が愛や感謝をチョコレートと共に伝えるだけでなく、男性からも花やメッセージカードを贈る『特別な日』である――と、商人たちは流行らせたいようね。実際、フォンテーヌではすでに定着しつつあるらしいわ」
入手した広告の紙面にはバレンタインについての文字が大きく掲載されていた。彼女が手にするのもカピターノが目にするのも似つかわしくないほどに、可愛らしいデザインのイラストや筆記が多くあしらわれている。
「……そうか。その行事に乗じた不正取引が増加しそうだな」
「そうね、注意喚起はしておきましょう」
真面目なのか皮肉なのか、気の置けない掛け合いを交わしながらも、リーシャは手にしていた紙面を下げはしなかった。
「それはそうと、私、貴方からの贈り物が欲しいの」
珍しい。リーシャの発言に対し、カピターノはそう思ったことだろう。
彼女が己の欲を主張したからではない。言わずとも自分が察すると分かっていながら、敢えて言葉にして求めてきたからだ。
「……欲しいものがあるなら好きに調達すると良い。執行官の権限を使って構わない」
「わかってて言うのは、意地が悪いわ」
戯れのような言葉に、リーシャは呆れ交じりの笑みを零す。ようやく、彼女は手にしていた紙面を下ろした。
「ふふ、別になんだって構わないの。貴方が私を想って用意してくれると言うのなら、そのあたりにある紙切れだって良いもの」
皮肉めいた応酬を捨てて、自ら明確な思いを露わにしたリーシャ。黙って与えられるのを待つだけに留まらないその姿勢に、彼は「なるほど、彼女らしい」とでも言うように、先程とは真逆の納得を覚えたようだった。
「最新の流行りに乗るスラーイン……というのはなんだか愉快な話かしら。だけど、それが息抜きになるかもしれないでしょう? 気が向いたときにでもお願いするわ」
「贈り物、か」
ふむ、と深く考え込むカピターノに、リーシャはふっ……と頬を緩めた。彼が自分の言葉を真剣に受け止めた。それだけで、彼女は充分満たされたようだった。
「もちろん私も用意するわ。当日に渡すわね」
娯楽としか言いようのない話題をわざわざ持ってきた、という時点で、カピターノならばリーシャの思うところを察しただろう。しかし、彼女はそれすら承知の上で要求した。思いのほか、バレンタインという催事が彼女の心を掴んだのか、その先にいるカピターノへの想いが溢れたのか。
大きな期待をしているわけではない。けれど、リーシャはすでに目的を果たすことが出来たのだ。手にしていた紙面を廃棄するべく、不用品入れの籠の中へと落とした。
◇
彼のことだ。それほど時間をかけることはないだろう、とは思っていた。それとも、自分と同じようにバレンタイン当日まで待つだろうか。期日についてはなにも言わなかったので、小さな疑問となる。
しかし、その答えはリーシャの想定よりもずっと早くに訪れた。
窓の外は深い闇と雪で覆われている。風雪が窓を叩き、ガタガタと音を鳴らしている。この国にいる間は途切れぬ音とも言える以上、リーシャにとっては無音に等しかった。
静寂が続く部屋で、リーシャはひとりだった。バレンタインの話をカピターノに告げてから、すでに数時間が経過している。その間、他国の書籍に目を通し続けていた。
その時間が途切れることになったのは、静寂の上に別の音が重なったからだ。
遠くから近付いてくる落ち着いた足音、少々建付けの悪い扉が開く動作音、そして彼の、自分を呼ぶ声。
「リーシャ」
「おかえりなさい」
カピターノの声が届くと同時に、本から顔を上げる。
数時間前と変わらない、漆黒のコートを纏ったカピターノがまっすぐリーシャの元へ歩を進める。ソファに座るリーシャの隣に、静かに腰を下ろし、懐から取り出したものを彼女に差し出した。
「これを」
折りたたまれた一枚の紙だ。厚みがあり、カードの類であることが窺 える。
「……もしかして、バレンタインの? どんなことでも仕事が早いのね」
「時間を費やすほどのことではない」
「そういうものかしら。ともかく、なんでも良いと言ったのは私だもの。文句なんてないわ」
膝の上の分厚い本をテーブルへと移動させ、居住まいを正す。ようやく差し出された紙を受け取った。
「ありがとう、スラーイン」
大層満足そうに、嬉しそうに微笑むリーシャは、これ以上無いほどにバレンタインを堪能していると言えるだろう。
メッセージカードのように見えるが、表面はただの白い紙だ。裏返し、外側の両面を確認して、そのまま紙を開く。
折りたたまれた紙の内側には、メッセージカードとしての装飾が描かれていた。しかし、そこにはなんの文字も書かれていない。白紙だ。
確かに、贈り物はなんでも良いと、紙切れでも良いと言った。だが、彼はその言葉を真に受けるような男ではない。
では、何故?
リーシャは口元に笑みを浮かべたまま、彼がなにかしら意味のあることを図っているのだろうと考えを巡らせる。
「それと、これを」
「え?」
弾かれたように、リーシャは手元の紙から目を離し、隣のカピターノを見上げる。
カピターノの手が持ち上げられる。今度は懐を探るわけではなかった。
無機質な武具で覆われた指先に、元素力が纏わり、無数の氷の粒が宙を舞った。暖炉の火で暖められている部屋に冷気が広がる。
彼の手元で広がる氷の元素力は、すぐに空気に溶けて消えた。すると、何もなかったはずの彼の手の中に、一輪の薔薇が咲いていた。
氷によって作られた精巧な薔薇の花は、暖炉の火に照らされ、美しく光を反射している。
冷徹なはずの氷が、炎の光を吸い込んで熱を帯びたように輝くその様は、どこか幻想的ですらあった。
「……貴方、本当にスラーイン? なんだか、らしくないわ」
「お前の言った『特別な日』とやらに則ったまでだ。これはお前に相応しい」
開かれたメッセージカードの上に、宙を舞っていた氷の結晶が一片落ち、溶けることなくその美しい形を残す。一瞬で消えるはずの結晶が、彼の強い意志によって永遠を模した形を成していた。
「俺の隣はお前だけだ」
リーシャの目が見開かれる。彼の言動をおかしい、とは思わないけれど。
彼からそんな言葉を与えられるとは、これまで考えたこともなかったからだ。
「…………嬉しいわ……ありがとう」
カピターノの手から、氷で作られた一輪の薔薇を受け取る。
不純物を一切含まないその透明度は、彼の揺るぎない魂そのもののようだった。幾重にも重なる花弁は、触れれば指を切りそうなほど鋭い。
細くも力強いその茎を摘み上げると、指先が微かに震えた。触れた箇所から冷気が広がっていく。
リーシャの体温に、氷の冷たさは驚くほど静かに馴染んだ。刺すような痛みはなく、むしろ心地よい静寂を分け合っているかのような親密さがそこにはある。
常に正道を見据え、己の律を違えぬ彼の指先が、ただ一人のためにこの繊細な花びらを紡ぎ出した。その事実が、氷の冷気よりも深くリーシャの胸に浸透していく。
初めての響きに戸惑いはあった。しかし、震えた理由はそれではない。
カピターノ――スラーインの心に、言葉に、偽らざる誠実さが宿っていることをリーシャは知っている。
それは、幾百という年月を経ようとも変わらない、紛うことなき真実なのだ。

