わずかに汗ばむような熱を感じる夜の空気に、竜の鳴き声が混じる。葉のざわめきと共に聴こえる音はどちらもささやかなものだが、夜を包む静けさの中で響くには充分だった。
数分も歩けば必ずや野生の竜に遭遇するようなこの国で過ごすことになり、もういくつの夜を迎えたかは数えていない。
「ここにいたのか」
己の足元から声が届く。重みのある低音はとても聞き馴染みのあるものだった。リーシャが腰掛けていたのは人を支えられるほどに丈夫な枝、天を目指して背を伸ばし続けている巨大な樹木のものだ。覗き込むように樹木の根元へ視線を落としたリーシャは声の主をその視界に捉えて、弾んだ返事を向けた。
「あら、「隊長」様。予定より随分お帰りが早いのね」
腰を上げ宙に体を浮かせたリーシャは、枝葉の集まりからひとひら揺れ落ちる木の葉を彷彿とさせる軽やかさでカピターノの傍らに降り立った。
「なにかご用命でも?」
「いや、報告はすでにタルコから受けている。問題はない。拠点に戻ってもお前が姿を見せないのは珍しいと思ってな」
「まさか、それで私を探しに?」
訝しげに眉をひそめ、闇夜に同化しそうな黒衣のカピターノを見上げる。仮面を着用している彼の表情は影が落ちてただでさえ視界に捉えることが難しいというのに、今日の月には雲がかかっている。じわりと届く光は鈍く、遠く離れた篝火はふたりを照らしはしない。
「次の調査地に向かう道中だ」
表情を読み取る必要などなかった。そうでしょうとも、と言わんばかりの面持ちでリーシャはわざとらしく肩を落とす。対するカピターノはそんなリーシャの様子も意に介すことはなく、先程までリーシャが腰を落ち着けていた樹木の枝へと視線を向けた。
「この上で休息か?」
「ええ、風が通って涼しいの。静かで快適よ。貴方からのお土産もあるし」
「俺は土産と言えるようなものを持ち帰った記憶はないが?」
「貴方が採取してきた素材だもの。手は加えたけど、似たようなものでしょう」
リーシャは羽織るコートの内側から木製の箱を取り出す。それは彼女の手のひらの上に収まる程度のサイズで重みを感じさせない。カピターノの体による影で隠れてしまわないよう、わずかに届く月明かりの下で蓋を開け、彼に箱の中を見せつけた。蓋を開けたと同時に、甘い香りがふたりを包むように広がる。その香りに気付いたのか、差し出された箱の中身を目にしてか、カピターノは納得したように頷いた。
「ショコアトゥルの種から作ったのか」
そうよ、と応えたリーシャは自身を重力から解放してふわりと浮かび上がり、大きく離れていたカピターノとの目線を合わせた。ショコアトゥルの種から作り上げた一口サイズのチョコレートが詰められた木箱。リーシャは左手に乗せたその小さな箱をカピターノの眼前から奪うことなく彼の肩に身を寄せた。
カピターノが羽織るコートはリーシャのそれよりも重みを携え、襟にあしらわれたファーは彼を包み込むような深い密度を持つ。だというのに、カピターノと距離を縮めると煩わしい温気が増すどころか、ひやりと涼やかさを感じられる。
「貴方にもあげる」
木箱に積み重なるように収められた一口サイズの丸いチョコレートはただ固めてあるだけではなく、木の実が混ぜ込まれているらしい。ところどころ歪なシルエットを映し出している。リーシャの指が一粒つまみ上げると、カピターノの口元へ差し出す。
カピターノはリーシャの行動に異を唱えることもなく、仮面の影の下でそっと唇を開いた。
「美味しい?」
「ああ」
いくらかの咀嚼のあとに発せられた声は抑揚を感じられないほど平坦なものだった。その返答がどこまで本気なのか掴みようがない。けれども、リーシャはカピターノからの淀みのない返事に大変満足そうににっこりと笑顔を見せた。
「用意していた甲斐があったわ」
「自分が食べるためじゃなかったのか?」
「それもあるけど、せっかく作ったんだもの。貴方にも食べてほしいの」
「そうか」
背中を覆う長い髪とコートの裾を揺らめかせ、リーシャの体がカピターノの背後に回る。包み込むように首に腕を回して寄り添う姿は、まるで猫が飼い主に甘く擦り寄っているかのようだ。リーシャはカピターノの耳元に頬を寄せ、緩く彼の体を抱き締める。
「だから貴方も食べてくれたんでしょう?」
カピターノと共に過ごしてきた中で、似たような問答をした記憶は数え切れないほどだ。だからこそ、それはカピターノも同じなのだと知っている。
「そうだな……」
カピターノの声色が僅かに和らいだ。厚い布地の上からひやりと伝わる冷気もいくらか薄らいだ気さえした。カピターノの穏やかな空気感に気を良くしたリーシャはより強く彼に纏わせた腕に力を込める。
「良い補給にもなった」
「……それはなによりだわ」
甘い空気とは無縁な反応に少しばかり不満げに眉を寄せて、今しがた彼を抱きしめたばかりの腕を緩めた。同時にカピターノが歩き出す。先程までリーシャが止まり木にしていた樹木へ向かっている。リーシャはカピターノの肩に手を添えたまま、カピターノが歩くたびに空中で体を揺らめかせながらついていく。
「カピターノ、次はどこに向かうの?」
「オシカ・ナタだ」
「ああ、北西にある……遠いわね」
リーシャが休息に選んだ場は部隊が主な拠点としている場所から大きく離れてはいない。コアテペック山の東に位置するこの場からオシカ・ナタまで歩いて向かうとなれば、常人の場合どれほどの日数が必要だろう。聞きかじった情報からすれば、常人では辿り着くかどうかも怪しいだろう。その点、カピターノの場合は必要とあらば日帰りで戻って来ることも可能であることは目に見えているため、そういった心配は特にない。しかし、どのような目的で向かうのか、どの程度の探索を予定しているのか、そういった詳細が不明である以上はカピターノの帰還まで待つ日々がまた続くということだ。
それも仕方のないことだ。と、小さくため息をつくリーシャに気付いているのかいないのか、カピターノは樹木に手を添え、その巨大な幹から、地脈の律動を感じているかのようだった。
「休まずに行くの?」
「この時間で充分だ」
「多少立ち止まった程度の時間を休息だなんて言うのは貴方くらいじゃないの」
「先程、拠点でも時間を取ったからな」
「なら良いけど」
幾人もの部下たちのいる拠点に居心地の悪さを感じているわけではないが、少しひとりになりたくて……などという理由で距離を取ったのは失敗だったかしら。と振り返る。だからこそ、彼は敢えてこの場に立ち寄ったのかもしれない。この場を訪れたのはついでのような物言いではあったけれど、決して必要なことでもなかった。そう考えると、彼の優しさが気恥ずかしくもあるというものだ。
「気を付けて……」
執行官《ファトゥス》第一位の男になんと不要な言葉であろう。だが、リーシャが言葉を飲み込むことはない。カピターノの頬を覆う仮面の金具にそっと唇を寄せた。唇の表層に留まる冷たい金属の温度に名残惜しさを感じながら、カピターノの肩に添えていた手を離した。
ゆっくりと地面に着地する。手にしていた小さな木箱に蓋をして懐に仕舞おうとしたところで、こちらに背を向けていたカピターノが振り返った。
「リーシャ、共に来い」
それは思わぬ誘いだった。耳を疑いそうにもなったが、この距離でカピターノの荘厳な響きのある声を聴き違うことはない。驚きの表情で仮面で隠されたカピターノを見上げる。
「良いの?」
任務の際にカピターノに同行することは珍しいことではない。むしろ、共に過ごした年数を考えれば頻繁にあると言えるだろう。しかし、現在ナタに留まっている「隊長」部隊の構成員は各々の判断でナタ復興の協力を買って出ている。彼もまた、道中で困っているナタ人がいれば手を貸しているだろうし、それはリーシャも同じこと。その場を離れる理由がすぐには思い浮かばず、素直な疑問が口をついて出たのだった。
「静幻剤に必要な素材が集まらなければ、次のフェーズに移ることはできまい。なにより、オシカ・ナタはすでに荒廃した場だ。詳しい採取地を把握するには実際に赴いた方が良いだろうと思ってな」
「そう、ね」
カピターノの言わんとすることを理解する。第三者に遺そうとする意志から目を背けることはできない。リーシャは俯き苦々しげに顔を顰めたが、それをカピターノに明かしはしなかった。次に顔を上げたときには微笑みを携え、嬉しそうに声を躍動させた。
「じゃあ拠点に残っている誰かに伝えて来るわ。朝には戻るつもりだったから誰も私の居場所知らないでしょうし」
手中の木箱をカピターノに差し出す。リーシャの行動の意味を察して、カピターノは自身の右腕を静かに伸ばした。防具で覆われたその手の平に木箱が乗せられる。
「チョコレート、まだたくさん残ってるから貴方はもう少しエネルギー補給でもしておいて?」
「……ああ。それも悪くはないだろう」
カピターノの手中では木箱はより一層小さく感じられた。素直に受け取ってくれたことに満足したリーシャは宣言通り、拠点へ一度戻るために体を反転させた。
カピターノはきっと、リーシャの願う通りこの場で休息の時間を得るだろう。その時間を確保したい気持ちと、早く彼の元へ戻りたいという気持ちがせめぎ合う。
「リーシャ」
思わず振り向けば、カピターノが真っ直ぐこちらを見据えている。
「急ぐ必要はない。ここで待っている」
少しでも移動時間を短縮しようと宙を駆るリーシャに向けられた言葉は、まるで心中を見透かされたようだった。困ったようにはにかんで、それでも地に足をつけることはなかった。
「――貴方が、そう言うなら」
発言を違える男ではない。だからこそ急いてしまう気持ちをわかっているのだろうか。共に過ごせる時間を少しでも失いたくないのだ。そう伝えたら、どんな表情を返されるのか。
「でも、すぐに戻るわ」
離れた距離。仮面の影に隠された表情が見えるわけがないというのに、カピターノが小さく笑みを浮かべたように思えた。
